屋号をさまよう ❼ 言葉とともに

第7回屋号をさまよう ❼ 言葉とともに

2023.08.08

思いのほか長くなりすぎた。蛇足が過ぎたがこれで最後だ。

書き進めるなか、文章の稚拙さ、凡庸さに耐え難く、何度「やめよう」と思ったことか(吐き気すらした)。イメージは浮かぶのだが、なにしろ朧げで書き留めることができない。このように書きたい、あのように書きたい、から先が出てこない。ようするに文才がない。しかしなんでもそうだが、自分以上のことはできない。所詮、持っているものでなんとかするしかないのだ。でもなぜ、金にもならない、誰にも読まれない——本当にたいしたことない——文章を書き続けたのか。こんなもの誰が読むのだ、と思いながらも書き続けるには、何らかの「理由」が必要だ。わからない。だがあのとき、自身に起きたことは何だったのか、心の動きはどうだったのかを知りたい——そんな気持ちに応えるように書いていくうちに、やっと自分を許せたというか、許していない自分を発見したというか、それも含めて「自愛」の行為だったのかもしれない……とも思う。

ということで(何がということで、だ)……以上が、屋号を「さまよった」経緯である。そもそもwebよみもの「日々と。」を思いついたとき、版元代表による日記はあってもいいかな、と思ってはいた(メモ代わりの)。だが公開するにあたり、連載が1本もないのはどうにもアレなので、取り急ぎ自分で何か書いてみるか、そういえば、屋号が決まるまでのグダグダがあったな、日記を拡張してそれを書こう、あくまでも試しだからいいだろう、と、そのくらいの気構えでいた。

そのため、当初は「屋号はいつまでも決めないくせに、刊行する本はゴリゴリに押し進めるいい加減なヤツなんですよ、わたしは」というトーンになるはずだった。そんなものは2、3日もあれば書き終わるだろうと、タカをくくっていた。ところが、振り返るために当時の日記を読むと出るわ出るわ……鬱々とした、黒々とした、負のオーラをまとう自分に出会い、向き合わざるを得なくなった(本来の自分に)。どうりで筆が進まないわけだ(半年近くかかった)。「❻ 言葉の始まり」で、作家に求めることに「書けそうなことではなく、書けそうもないことを書いてほしい」と偉そうに(!)書いたが、これこそ、書きたくないことを誰かに書かされた感覚がある。

***

書き終えて思うこと。わたしは、いろいろな人に助けられている。

日記をめくっていると、銀行から入金(借金XXXXXXX万円)があった日の週にこんなことが書いてあった。

どうにもならない、首をくくるしかない、というところまでいくことはあるのだろうか。なるべく、たくさんの人たちと関係して、相談先を増やしておかなければ。ひとりで始めるわけだが、ひとりではないと、骨で理解しなければならない。ある意味では、世界と関わることを組み込まなければならない。誰をも信用せず、誰をも信用する。そんな状態、境地に。

日記より/2020年9月3日

果たして、「そんな状態、境地」には達したのだろうか。依然としてわたしは、自分の「無知」と「あやうさ」と「おめでたさ」がおそろしい(首はくくりつつある)。どこを向いているのか——まえは? うしろは?——わからなくなることがよくある。そうでなくとも「ひとり出版社」はきつい。金は入ってこないくせに、とにかく出ていく。何もしなくても金がかかる。生活だって当然ある。いつ金がなくなるのか……生きた心地がしない。現在、創業前にしこたまやったこと——融資獲得のため、入念に調べてつくった分厚い業界資料(五カ年収支計画書も)や、「ひとり出版社」の先輩方から聞いたこと——とは、まったく違う、使いたくないけど「世界線」が進行している。

「こんなはずではなかった」

あたりまえだ。誰かの人生を生きることはできない。世間一般で言う「しあわせ」は手に入らないんだよ(そんなものいらない。でも少しの金はいる。少しでいいんだ)。おまけに、歳を取るごとに選択肢は減り、抱えるものは増えていく。勤め人であった日々のことを想う。

わたしの日常は地味だ(YouTubeチャンネルを開設して「なんとかルーティン」でもやってみるか)。平日の夕方17時から21時ころまで、土日祝日の10時から21時ころまで、50ccのスクーターでフードデリバリーの配達員をやっている(平日の17時までが人々舎。刊行物の編集、営業、販促が佳境のとき、家庭の事情があるときは休む。例外はあるが基本的に休みはなし。常に眠い)。悪天候だと注文が増えるので、スキップしながら(嘘)配達に出る。始めてから、もう、かれこれ2年くらいになるか。出版業よりも稼働時間は長い。だから厳密には「ひとり出版社」とは言えない。「日銭を求める労働者」だ(「パパのお仕事はUber Eets」と子どもは言う。「そうだね」とわたしは言う)。音楽漬けのフリーターだった20代のころみたいだが、わたしは今年で47歳だ。「選択肢は減り、抱えるものが増え」ていくなか、こんなことをいつまで続けるのか。本に関わることだけで食べていくことは、夢みたいな話なのか。

(なんだか止まらなくなってきたので続ける)

配達員を始めたのには理由がある。出版業界の慣習(!)として、製作費の支払いは翌月(150万〜200万。どこもこんな感じなのでは)だが、取次をかえしての売上入金は原則半年後(老舗、大手は別。卸率も)なのだ。こうなると毎月の支払いをどうするのかが問題だ(人々舎の契約取次は、なんというか、本当によくしてくれている。何度ピンチを救われたことか)。とくに始めたばかりの版元は、用意した資金を切り崩しながら刊行ペースをつかみ、「支払い⇄入金」のサイクルを確立させなければ回らない(回らなければ、ジ・エンド)。わたしの場合は、金は借りられて(尽きつつある)、刊行する本も決まっていたが、入金ペースが半年後ではあまりに心もとない。本を刊行したとしても、売れなかったら、それ相応の、まことに厳しい現実が突きつけられるだけだ。なかには編集や執筆などを請けることで、入金チャンネルを増やしている先輩方もいる。ほか、通販や配信、講座など、出版に紐づく「オリジナル商材」を開発する版元もある。比較的入金の早い、書店さんとの直接取引の割合を増やしていくことも、ひとつの方法だ。とにかく「何か」でリスクを減らさないことには、続けていくことは不可能だ。さらに、物価高による紙の値段(おそらく印刷費も)の高騰が追い討ちをかける。本来ならば本の定価を上げたいところだが(これは皮膚感覚だが)、以前に比べて2000円を超える本は手に取られにくくなっている(気のせいであってくれ)。

そこでわたしは配達員に——なるべくして——なった。なによりも時間に融通がきく(iPhoneから専用アプリにアクセスするだけ)。仕事内容は、モノ(主に料理)を、A地点(店)からB地点(注文者)へと運ぶ。それだけだ。人と関わることも少ない——忖度する、保身に走る、癒着する、隠蔽する、恫喝する上司はいない。それにだ。本に関わることは、好きなこと(やれること)しかやりたくない、純粋でいたい(何が?)、と、いまだに青臭く考えてしまう自分がいた。

スクーターで走り回っていると、街の空気や表情を肌で感じることがある——移りゆく天気。晴れと曇りと雨。午前と午後と夕方と夜。平日と週末と祝日。日没。春夏秋冬。季節の変わり目。ゴールデンウィーク。クリスマス。年末年始。コロナ禍初期の雰囲気。緊急事態宣言。オリンピック。ウクライナ侵攻。銃撃事件。ワールドカップ。物価高——人々、社会、世相(のテンションというか感情のようなもの)が、空気と混じり合って身体にぶつかってくる。

優雅な雰囲気に書いてはみたが、実情は悲惨極まりない。冬は寒い。夏は暑い。雨は冷たい。ドロドロに疲れる。つらい。もう、やめたい——週末に出歩く家族連れを横目に走っていると、自分は決定的に間違っているのではないか、と思わないことは難しい。だがこの景気では当分無理だろう。10時間近く乗り続けるとフラフラになる。運転は疲れるのだ。

運転についてもうひとつ。普通自動車免許を取得したのは20数年前だ(この免許には原付免許も付いてくる。一応補足)。その間、ほとんど運転する機会がなかったので——東京での一人暮らしには必要なかった——ペーパー・ゴールド免許(5年間の無事故・無違反)であった。スクーターで配達を始めるにあたり、20数年ぶりに公道に出たわけだが、交通標識を何度も見逃し(一時停止、転回禁止、進入禁止、二段階右折……)免許停止になる(実は、1月から4月まで2回目の免停期間であった。電動自転車で配達をしたが、実入はバイクの半分に、疲れは倍に、ストレスはさらに倍になった)。さらに……運転する人は常識(!)として保険に入る。強制保険と民間保険の最低2種類。わたしは民間保険の存在を知らなかった(誰も教えてくれない)。2回目の新型コロナワクチンを接種した次の日に、朦朧とした頭で道路に出て、停車中のワゴン車へ後ろから突っ込んだ。ここで民間保険未加入が発覚し、自腹で修理・代車費用を支払う(強制保険適用外/40数万円)。現場検証に来た交通課の警官に、「ワクチンを接種したら2日間は休まないとな」と、肩をポンとやられた。

一体何をやっているのか。人に助けられてはいるが、「無知」と「あやうさ」と「おめでたさ」で、ほとんどない信用がまったくなくなってしまう。果たして、出版社を始めることにしたのは、わたしには無謀だったのだろうか。

***

屋号を求めて「言葉」を探し、出会い、助けられた。こんなにも幸運なことがあるだろうか。「❶ 言葉を探す」で本のタイトルの決め方を書いたが、屋号が決まった過程も、似たようなものであった——この原稿を書いてわかった。ということは、本をつくるように、人々舎をつくっていくことになるのだろう。なるようにしかならない。答えを出すのはまだ早い。

思えば、わたしはいつも「さまよって」きた。自分ではない「ほかの誰か」になろうとしてきた(一体誰に?)。どうりで、何もうまくいかないわけだ。なんの後ろ盾もない人生を選ぶまで、このことがわからなかった(4月19日に母が亡くなり、よりはっきりした)。また繰り返すところだった。なんだか笑ってしまう——笑ってほしい。

結局のところ、わたしは「わたし自身」を生きるしかないのだ。「人々舎」とともに、やれるところまでやるしかないのだ。それがわかっただけでも、この原稿を書いた意味があるではないか。それでいいではないか。さあ、また明日だ。

「屋号をさまよう」了

樋口聡ひぐち・さとし

1976年生まれ。茨城県水戸市出身。ひとり出版社・人々舎(ひとびとしゃ)代表。27歳のときに、バンド活動及びフリーター生活から出版業界へ。以降、編集の真似事と退廃の20年を過ごしたのち、2020年に独立。「本にむすうのうつくしさを。」をスローガンに、東京都中野区にて人々舎を始める。

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